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2019

​アーカイブ

平野遼特別展

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【 会 期 】    2019年1月12日(土) - 2月17日(日) 

【 会 期 】        HOUBU記念絵画館

【 開館日 】   会期中の〔土〕〔日〕曜日

【展示作家】    平野遼(油絵)

発掘された瞬間の宝石の色ほど、美しく新鮮なものはないかもしれません。画家は刺激のためになるものを良きものと考えたり、あらぬ方向へ美を求めたりして、泥にまみれた神聖な美を台無しにすることがあるからです。平野遼の叩きつけるような筆致は、いつまでも強烈な印象の余韻が眼と心に残るものです。それは、即興的で無駄のないタッチですが、そのときに生じた美しさは、我々の心に食い下がる迫力を感じさせるのです。そして、それは発掘された新しい美かどうかは別にしろ、荒唐無稽なアクションペインティングのように不可逆的な感をつよめます。しかし、一方で、その技術の炸裂は、一種の泉のように、そこから後に連続するタッチが増殖的にあふれ出て来るものだと思います。

これらのことを考えあわせてみると、作品を磨き上げるのには、どこで筆を止めるかという問題、つまり、いろいろな要素を加算する過程で、一度限りの、もう逆戻りはゆるされない美の瞬間を感覚的に見極める問題があることを感じさせるのです。その緊張はあるいは高まり、あるいはゆるみます。その古典的な例は15世紀のフランドルの画家や、書道のような一回性の芸術に顕著にみられるものです。
ところで、平野遼の絵は、美というものが別の意味でも瞬間的で、新しい様式を導きいれるときには快感をともなうことがあることを物語っています。もちろん、美をたんに瞬間的の輝きのみによって特色づける現象だとすることには反論もあるでしょう。代により差こそあれ、美は伝統という強い抵抗の上で推し進められるもので、古い伝統が崩れて、飛躍への素地が出来上がっている時、禁断の美は輝くのです。
平野遼が一時の断絶を超えて、本格的に抽象への変化を着実にしたのは晩年です。おそらくそれは、美に対する考え方が根底から変わろうとしている動きを物語るものだったのかもしれません。平野遼の抽象は、実際、なんら説明的な要素を構成しません。また、一方で、平野の具象にしても、それは伝統の動きを鈍いものにして、それ以上に高められる場合には一気に実質的な充実を起こして、抽象的なものに昇華してしまいます。つまり、比較的に抽象的なものと、具象的なものはありますが、もっとも具象的なものでも、現実の意識からすると抽象的なのです。ただ、その変動の条件がごてごてと説明の要素を増してくると、全体として感じる緊張の効果は薄弱になってしまうようです。いくら手をかけてもそれ以上のものにならないからです。それらはきわめてぼんやりした光の中に照らし出されていて、一種ジャコメッティ的な灰色が、我々の興味を惹きつけるものです。伝統というものに躓(つまづ)かなかった平野遼の絵には磨き上げられた宝石には見いだせないものが含まれているといえます。彼が目指したのは、汚いけれども美しいものです。本展は、その平野遼の抽象的な傾向の作品をメインに構成するものです。

​感覚とは何か

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【 会 期 】    2019年3月14日(木) - 5月5日(日) 

【 会 期 】     HOUBU記念絵画館

【 開館日 】   会期中の〔木〕〔金〕〔土〕〔日〕曜日

【展示作家】  白神政史(写真) 佐藤アキラ(写真) 飯田幸夫(写真)  

        柳沢淑郎伊(油彩) 牟田經正(油絵) 北村巌(油彩)

        児島新太郎(油彩) 髙橋均(油彩)

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眼で見て観察し、鼻を近づけて匂いをかぐとはいえ、実際に感じているのは、脳の感覚野です。また、窓の外に北風がうなる声を聞くとか、風に流され大空を横切る雲を見るともいいますが、それは脳が作り出し、脳がくり広げた世界です。このように外の世界に、ものの存在を感じる性質を、感覚の投射というそうです。感覚野の脳細胞の活動が、なぜ心に食い込むような意識現象を起こすのか、それを証明する科学的な根拠はありません。ただ私たちは知覚が起こす刺激の性質と、それによって伝わる電光的な認識との間の対応装置として自我を意識するのです。そして我々は、たんに感覚野に同化し、外界に順応しようとするばかりでなく、さらにその感覚の受け方というものを通して自分というものをはっきりさせ、内密の自我を、内的な思考を、絵画などを通して外部に表現し、時の流れの中に自分の痕跡を残し、自我を無限の世界に確立し、創造しようとするのです。

我々は、どうしても自らを完全な感覚を持っている者と考えがちですが、たとえば臭覚とは20歳をピークに年々衰えるものです。ですから、時として仲間や家族には当たり前に感じられる匂いで、自分には感じられない匂いに出くわすことがあるものです。これが適応のために欠くことの出来ない感覚だとしたら、この時、我々は外の世界との接触が失われたことを感じます。自我が強く、個性的であればあるほど、自我と外の世界との対立ははっきりします。とはいえ、色や音に対する感覚が多少鈍いくらいなら、生きているのに困難は感じませんし、画家ならば外の世界との間に新しい関係が生まれることもあるでしょう。そして画家は外の世界に対する感覚

だけで絵を描くわけではありません。つねに何かを感じ、確かめるのは内部への感覚です。たとえ現実には存在しないものでも、脳がその存在を感じているのであれば、それは確かな存在なのです。

ところで、カメラは人工的な目を持った記憶装置といえます。基本的な機能はいうまでもありませんが、目の前の風景をつぶさに記録する装置として、カメラが絵画よりも利点が多いことは、一般にみとめられるものです。人間がカメラを扱う以上、求められるのは、その時感じた思いを写真に反映させることだと思います。しかし、レンズは感情の高ぶりとは無縁で、そのままの情景、景色、色素を切り取ることから、自分との感覚に差が出てきます。この差が人間の感覚と、現実を鋭く切り取るカメラとの差だといえます。もちろん、ピントや露出を駆使して、欲する効果に近づけることも出来ますが、基本的には主観的な情報を跳ね返すものです。これを、あくまで脳が感じた情報を処理する絵画と比較し、相違を掴むことは感覚の位置づけに役に立つものと思います。大きなテーマで題をつけましたが、「感覚とは何か」という、ほとんどすべての画家が抱く疑問を、この比較により答えることはできないでしょうか。音は空気の波になって、光は量子として、我々の方へ飛んできます。しかし、人間の感覚について答えるためには、二次元的な記録の核心に迫る必要があるのかもしれません。花が美しく咲いているところへ我々がやってくると心地よさを感じますが、それは匂いが我々にとって快感であるのと同時に、花という存在そのものが与える意味に秘密があるのだと思います。その秘密を解く鍵が、絵画や写真に触れ、意味ありげな花の名前を覚えたりすることにもある気がするのです。

和ノ音ノ、ホノカナルニ

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【 会 期 】  2019年5月30日(木) - 7月21日(日) 

【 会 期 】     HOUBU記念絵画館

【 開館日 】  会期中の〔木〕〔金〕〔土〕〔日〕曜日

【展示作家】  中西静香(水彩木版) 紅露はるか 徳力富吉郎(木版画)

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中西静香は自らのイメージに浸って、ポエムの香りする美をこしらえる木版画家です。そこには、時間が止まったような、名状しがたい空気があり、研ぎ澄まされた感性の中に、おおらかさと繊細さが共存しています。彼女の作品の特徴として挙げられるのは、淡い色彩の表現であり、夢と郷愁の混濁した体質を強化し、非現実的な空気を高めています。そして、その淡い調子は支持体とも調和し、まるで何かがゆらいでいるような和紙の風合いをあますところなく引き出しています。同時代的な意識に根ざしたような、彼女の平面性を盛りこんだ表現は、一見、無駄なものをそぎ落としているようで、微妙な諧調をはらみ、余白を用いるなど、余剰的な要素も重視しているようにも見えます。それらは伝統を譲り受けたのではありませんが、日本人が愛してやまない象徴性や、イメージを表現のポリシーとする意味での抽象性も垣間見られます。彼女の平面的で、湿り気をともなった優しい表現は、現代的な造形を、日本的な美感覚で、うちから支えるものではないでしょうか。 

ただ、中西に、日本的な美感覚という言葉を投げかけても、きょとんとした表情を浮かべるだけかもしれません。西洋絵画とその空気を当たり前のものとして呼吸してきた彼女にとって、そのようなことは、もはや問題にさえならないかもしれません。 

ところが、自国の文化を背景に、西洋の表現でその方向性を語りかける葛藤の歴史からは、切り離されたところにいるはずの次の世代ですら、身の回りのものや、風景をモチーフとして扱うようになると、技法の特性はあるにせよ、それまで身に着けてきた教育から見れば、拍子抜けするほど、平面的でイメージ化された表現になる画家がいます。それは、三次元的なイリュージョンの世界では現実の姿をリアルに表現できないという近代絵画の流れでしょうか。それともアニメで育った世代は、意識的にせよ、無意識的にせよ、サブカルチャーの主格化なしには、西洋のスタイルを変容し、時代性を発揮することが出来ないのでしょうか。 

ところで、救急車が近づいてくる時にはサイレンが高い音に聞こえ、通り過ぎると低く聞こえることをドップラー効果と言いますが、この原理で伝統と流行を区別できないだろうか、そして拡張する日本美術の現在地を、つまりは向かっている位置を計測できないだろうかというのが企画の狙いではあります。本展では、現代の新鋭である中西静香の木版画とともに、日本の伝統様式に創造の源を発する徳力富吉郎の作品を並べ、伝統と流行という異なる二つの波長に耳を澄ますことで、作家が置かれている地点を体感し、磨かれた美感覚を捉えなおすものです。淡い日の丸がベールのように映し出す、それぞれの時代の空気をどうぞ肌で感じてください。 

影の静かな影響

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【 会 期 】  2019年8月15日(木) - 10月6日(日) 

【 会 期 】     HOUBU記念絵画館

【 開館日 】  会期中の〔木〕〔金〕〔土〕〔日〕曜日

【展示作家】  小野隆生(油彩とテンペラの混合技法) 髙橋均(油彩)

        國領經郎・松樹路人(油彩)、久藤エリコ(切り絵)


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 一枚の絵を見ている時に、絵のある部分が急に立体的に飛び出して見えてくるということがあります。それは、絵画の中にある美を指し示すのでもなければ、なんらかの情緒を喚起するのでもありません。それらは単に、絵画が、前には無かった激しさで現れ、突発的な意味を示します。そうして我々は、その瞬間になって初めて、描かれた光と影がそうさせていることを理解するのです。影とは存在の証です。証とは比喩的なものではなく、物体が光をさえぎった塊なのです。 

現実の世界でも、光と影が支配していて万物に影響を与えるものとして君臨しています。つまり人間は目で明暗を見分けることから様々な情報を取得しているのです。近年、絵画は素材や技法の種類が増えたことから、明暗の変化だけでなく、その他の要素で形態を暗示するようになってきました。しかし、影とは、ここで挙げられている要素に加えて「構図」や「比率」といった情報も発信しています。それを虚構と呼ぶのはさしさわりがありますが、やはり影というものは、芸術の道具として作り出していなかったでしょうか。 

本展は影について、明暗の調子の処理だけでなく、技術的進歩による方面からも探るものです。かつて影といえば黒を混ぜることが主流でしたが、印象派では青や紫を用いるなど、影を色に直す表現に進歩が見られました。それは、重厚であるが故の混色を免れるものでしたが、その影の性格によって、絵画の響きは分裂を免れ、劇的な効果を生み出した気がします。ただ、一旦あるものを叩き壊して、今度は種類の違うものを作る絵画は、少なくとも、この状態から部分的に抜け出したようです。そして、現代の作家は、人間の眼に喜びを与えるよりも、外界の色に静かな影響を与える境地に到達しているようです。それは画面を暗くすれば、奥行きが生じる故だけでなく、爽やかな色と形が余計に際立つというしくみです。一種のロマンティシズムと対比する、詩のような絵画の価値に関心を持った画家たちの影の表現に注目します。 

最良に近いデフォルメ

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【 会 期 】  2019年10月31日(木) - 12月22日(日) 

【 会 期 】     HOUBU記念絵画館

【 開館日 】  会期中の〔木〕〔金〕〔土〕〔日〕曜日

【展示作家】   関野準一郎(木版画) 歌川広重(木版画)

京都  /  関野凖一郎

関野凖一郎ほど、日本人に親しまれ、愛された版画家はいないのではないか。もちろん純粋な造形として、世界から高い評価を受けている関野の版画は、決して安易な日本趣味に走ったものではない。関野版画が専門的な鑑識眼を持った人のみならず、多くの人に愛される理由の一つとして、写実を基盤にした、親しみやすいデフォルメによる表現がある。一般的にデフォルメとは、通常、ものの形をすっきりと見やすくしたり、誇張したりするものだが、抽象絵画を通り抜けた関野版画は、画面における空間のパースペクティブや、時には物の存在までもデフォルメさせてしまう。それは、実は日本人には馴染みの深い、浮世絵でも多視点という構図処理によって用いられている。例えば、広重の五十三次で、富士が下から仰ぎ見る視点でありながら、手前の人物は上から眺め下すという、まるで山水画における高遠と平遠そして深遠という視点を一つにしたような、かつて江戸の絵師たちがほぼ感覚で行っていたことを、近代に生きた関野版画は、理論的な裏付けにより、遠近を効かせた写実風なものから、ほとんど抽象風と言えるものまで、表現の目的に応じ自在に使い分けている。 

芸術を進歩発展するものと考えるのなら、木版画で何を表すかという問題意識の境界に、しなやかに対応した関野の美的調整は、対象の客観的な形態と内的イメージとを近づける 作業として行われるデフォルメと、絵画というものがそれ自体で成立するような、対象ではなく画面主体のデフォルメの、その中間の仕事と言えるだろう。そして、それらの作品群が、我々の目に親しみやすく映るのは、個性的な灰汁の強いデフォルメではなく、まるで広重の最良の作品のように、対象の持ち味を引き出す理想的なイメージ化が、日本人の感性に抵抗なく受け入れられるのだろう。抽象版画が全盛の頃に、恩地らに影響を受けながらも、決して時代に流されることなく、浮世絵の伝統を引き継ぐ、風景木版に生涯を全うしたところに、関野の真の偉大さがあるのかもしれません。 

今回の展覧会では、その画業の中でも、代表作である「東海道五十三次」を紹介します。もちろん、東海道五十三次といえばあまりにも広重が有名で、ある意味特別扱いすら受けてはいる気がしますが、関野はその偉大な先人に引きずられることなく、構図においても、主題においても、現代の要素を取り入れるなど、あくまで関野ならではの野心的な仕事として行いました。連作は造形の必然性が弱くなり、主題に妥協するのが難点ですが、関野のように幅広いスタイルを器用にこなす画家にはいいのです。西洋的なテクニックに日本的な視点を加えた画家の渾身の連作を、広重の復刻版の五十三次とともに展示します。二人のデフォルメの、その違いにも注目しながらお楽しみください。 

HOKUBU記念絵画館

HOKUBU Memorial Picture Museum

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